Born to be Wilde

ご無沙汰しております。三月は研究関係の行事が忙しく、結局ブログを更新出来ないまま終わりました。「毎月の始めにブログを更新する」という新年の抱負も敢え無く頓挫しました。いやあ我ながら持続性がない(苦笑)。

 

そんなわけですが、気づけば留学を初めてほぼ丸一年が経ちました。ダブリンが舞台となるジョイスの作品をここ数年読んでいたからか、来た当初からあまり「外国」という感じはしませんでしたが、一年住んでみて本当の意味で "Dubliner" 「ダブリンの市民」の仲間入りが出来た気がします。観光客がどういう印象を受けるかは別として、ダブリンは暮らすにはとても便利で楽な街です。

 

さて、ダブリンといえば街中にあるパブが有名ですが、文化施設も負けじとあります。中でも目立つのが劇場です。ユネスコ指定「文学の都市」の異名は伊達ではなく、中心街だけでも国立劇場であるアビー座(the Abbey Theatre) を含め立派な劇場が5、6個あります。ダブリンの人口が53万人(アムステルダムの三分の二くらい)なのを考えると、なんと贅沢な数でしょうか!

 

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しかし、それも不思議ではありません。20世紀に限っても、ダブリンはジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw, 1856-1950)、W. B. イェイツ(W. B. Yeats,1865-1939)、ジョン・ミリングトン・シング (John Millington Synge, 1871-1909)、ショーン・オケーシー(Sean O'Casey, 1880-1964)、サミュエル・ベケット(Samuel Beckett, 1906-1989)等、世界的に有名な劇作家を数多く輩出しています。

 

当然演目のレパートリーも相当あるわけで、毎月(下手すると毎週)どこかの劇場で有名な劇作家の作品が上演されています。そこまで演劇に造詣が深いわけではないのですが、アイルランド文学者としてこれ以上恵まれた環境はないので、研究の傍ら筆者もよく劇場に足を運んでいます。

 

最近では、ダブリンが生んだダンディズムの父、オスカー・ワイルド(Oscar Wilde,1854-1900)作『理想の夫 An Ideal Husband』(1895)を観ました。

 

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ダブリンに生まれ、ダブリン大学(トリニティ・カレッジ)そしてオックスフォード大学を出た後にロンドンで小説家そして劇作家として大成したワイルドはともすると「イギリスの劇作家」として語られがちですが、作品を彩るユーモアとウィットはまごうことなきアイルランド産。ワイルドの劇の多くは、(『サロメ Salomé』を除くと)イギリスの上流階級の風刺が利いていますが、『理想の夫』もその例に漏れません。

 

物語は、一組の夫婦(チルターン卿夫妻)とその友人(ゴーリング卿)と後者の昔の恋人(チェブリー夫人)を軸に展開します。チルターン卿が過去に犯した不正がチェブリー夫人によって暴かれそうになり、政治家そして夫としての名誉を守るためにチルターン卿がゴーリング卿と手を組んで色々と画策するのですが、その過程でヴィクトリア朝のイギリスにおける男女関係ひいては人間関における「誠実さ」とは如何なるものかという命題が皮肉たっぷりに劇化されています。

 

当時の歴史背景をより詳しく知っていると更に味わいが出るのでしょうが、そうでなくても充分楽しめる作品です。アフォリズム(金言)の名手ワイルドならではの、思わず唸らされる軽妙な名(迷)言の応酬も見物です。機会があれば是非ご覧ください!

Happy Birthday James Joyce!

こんにちは。気づけば2月になりました。「師も走る」ほどの忙しさと書いて12月と読みますが、一月も同じくらい早く過ぎるような。。。とりあえず今のところは今年の抱負を守っています(笑)。さて、毎回毎回同じネタで恐縮ですが、今日は僕が研究している作家、ジェイムズ・ジョイスの誕生日なのです。1882年生まれなので(1941年没)、生きていれば132歳ですね。ちょうどいい機会なので、今回はジョイスのダブリン時代の経歴について少し紹介したいと思います。

 

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ジェイムズ・オーガスティン・アロイシアス・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce)は1882年の2月2日に、ダブリン南のラスガー(Rathgar)に生まれました。[1] ラスガーは筆者の住むラスマインズ(Rathmines)の近くで、ジョギングをする時はここの地区をいつも通ります。生家には記念のプラークが掲げられています。

 

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ジョイスはジョン・スタニスラウス・ジョイス(John Stanislaus Joyce)とメアリー・ジェイン・マレー(Mary Jane Murray)の間に七人兄弟の長男として生まれました。ダブリンの税徴収官として働いたジョンはアイルランドの南部コーク(Cork)の出身で、ジョイスも時折父親の田舎に帰省したようです。ジョイスの自伝的小説である『ある若き芸術家の肖像 A Portrait of the Artist as a Young Man(1916)』の第2章第3部では、ジョンが息子をコークの友人の前で「やつはしょせんダブリンもんにすぎないよ he was only a Dublin jackeen」[2] と揶揄する場面があったりします。

 

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教育熱心で学歴にこだわりのあるジョンは、息子のジョイスをイエズス会が運営するクロンゴウズ・ウッド・カレッジ(Clongowes Wood College) に入れました。ダブリン州の隣のキルデア(Kildare)州にあるクロンゴウス・ウッドは、今でもアイルランド随一の名門校として知られています。入学の最低年齢は7歳とのことなので、一歳早く入学したジョイスは、既に早熟の才を見せていたのでしょうか。[3] 

 

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学業優秀で学友ともうまくなじんだジョイスですが、父親の浪費癖のせいで家計が傾き、9歳のときに敢え無くクロンゴウズ・ウッドを退学します。その翌々年、クロンゴウズ・ウッドの元学長コンミー(Conmee)神父のはからいで、ジョイスは同じイエズス系のベルベディア・カレッジ(Belvedere College)に入学します。ベルベディアはダブリンの北側、ジェイムズ・ジョイス・センターのすぐ近くにあります。去年の「ブルームズ・デイ」[4] には、『ある若き芸術家の肖像』の第三章で主人公が聞くお説教を本物の神父が実演するという面白い余興が近くでありました。

 

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ベルベディアを1898年に卒業したジョイスは、ユニバーシティ・カレッジ(University College)に入学します。カトリックに改宗して枢機卿となったイギリス人のジョン・ヘンリー・ニューマン(John Henry Cardinal Newman)が初代学長をつとめたカトリック大学(1854年創立)が前身ですが、1883年からイエズス会の手に渡ります。ユニバーシティ・カレッジはダブリンの中央公園である聖スティーブンズ・グリーン(St. Stephen's Green)の北側にあります。毎年夏に開かれるジェイムズ・ジョイス・サマースクールの会場でもあります。

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ユニバーシティ・カレッジでジョイスは現代ヨーロッパ語(フランス語とイタリア語)を専攻しました。大学時代から既にジョイスは異彩を放っていたらしく、1902年に同大学の文芸歴史会(Literary and Historical Society)で詩人ジェイムズ・クラレンス・マンガン(James Clarence Mangan)について発表した論考は、学内新聞で「みなそれを秀逸だと言ったが、何を意味するのかは誰も分かっていないようだ Everyone said it was divine, but no one seeemed quite to know what it meant」と評されています。[5]

 

1902年にユニバーシティ・カレッジを卒業したジョイスは、何を思ったのか医師になろうと志します。最初は同じ大学の医学校に入るも [6] すぐそこをやめ、パリの医学校で勉強すべく1902年の12月3日にパリに渡ります。パリでは、セーヌ側左岸にあるオデオン座(théâtre de l'Odéon)のすぐ隣にあるオテル・コルネイユ(Hôtel Corneille)に部屋を借りました。去年の秋にパリの友人を訪れた際に寄ってみたのですが、生憎もうホテルはありませんでした。。。

 

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肝心の留学はと言うと、あまり医学の素養がなかったのかフランス語での授業は大変だったのか、難航していました。そのうち、授業には出ずサント・ジュヌヴィエーヴ図書館(Bibliothèque Sainte-Geneviève)で文学や哲学の本を読むのが日課となりました。[7] お金もなく、ひもじい暮らしをしているとダブリンから母危篤との電報が届き、ジョイスは1903年の4月11日にパリを去ります。17年後、ポーラ、トリエステ、ローマ、チューリッヒを経て再びジョイスはパリに(実に20年も)住むことになるのですが、それはまだまだ先のお話。

 

急遽ダブリンに戻ったジョイスですが、生憎母親は1903年の8月13日に亡くなり、その悲しみもあってかしばらくは何もせずフラフラしていたようです。1904年の6月10日に将来の妻となるノラ・バーナクル(Norah Barnacle)と知り合い、それがきっかけともなって、同年の10月にジョイスは作家として身を立てるべくアイルランドを離れるのですが、それまで将来像はぼんやりしていました。ノラとの最初の逢瀬を記念して、6月16日に物語が設定されたジョイスの大作『ユリシーズ Ulysses(1922)』は、まさにこの時期の彼とダブリンが舞台なのです。

 

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ユリシーズ』の第7挿話の「アイオロス "Aeolus"」での一場面。ダブリンの目抜き通りであるオコンネル通り(O'Connell Street)近くにあるフリーマンズ・ジャーナル新聞社(The Freeman's Journal)でそこに集まる年上の市民たちとダブリンそしてアイルランドについて様々な談義を交わしたジョイスの分身スティーヴンは、内心こう思います。

 

「ダブリン。僕はまだ沢山のことを知る必要がある Dublin. I have much, much to learn」[8]

 

祖国を離れ、ヨーロッパの都市を転々としながらも、死ぬまでダブリンについて書き続けたジョイス。『ユリシーズ』をはじめ、ジョイスの作品をより良く理解するためには、我々もダブリンについてもっと知るべきなのかもしれません。

 

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Notes

 

[1] ジョイスの生い立ちに関わる情報は全て次の文献による。Richard Ellmann, James Joyce. Revised and Expanded Ed. (Oxford: Oxford UP, 1982).

[2] James Joyce, A Portrait of the Artist as a Young Man (1916; London: Penguin, 2000) 99.

[3] Kevin Sullivan, Joyce Among the Jesuits (New York: Columbia UP, 1958) 13.

[4] ジョイスの小説『ユリシーズ Ulysses』(1922)の物語の舞台となる6月16日にちなんで毎年ダブリンのみならず世界中の都市で催されるお祭り。

[5] St. Stephens, 1/4 (Feb. 1902) 77. この時の論考("James Clarence Mangan [1902]")は、James Joyce, Occasional, Critical, and Political Writing. Ed. Kevin Barry. Trans. Conor Deane (Oxford: Oxford Up, 2000) に収集されています。

[6] St. Stephens, 1/8 (Nov. 1902) 173.

[7] Ellmann 120.

[8] James Joyce, Ulysses (1922; London: Bodley Head, 2008) [7.915].

Happy New Year!!

明けましておめでとうございます! ダブリンでも年が明けました。留学一年目ということで、年末年始は現地で過ごしました。クリスマスは前大家さんとその日本人の奥様に自宅に呼んで頂き、七面鳥にハム、プディングとアイルランドらしい料理をご馳走になりました。

 

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(Photo courtesty of L. M.)

 

新年ということで、早速抱負を立てました。そのうちの一つは、「ブログを月はじめに毎月更新する」です(笑)昨年の夏から、全く更新が止まってしまっていることは自覚しています。特に何か問題があるわけではないのですが、その後毎月一時帰国やら国内外の旅行やら用事が入り(喜ばしいことですが)、その間の埋め合わせをするために週末も何らかの作業をするという悪循環に陥り(大体月一で指導教授との面談が入る)、結果ブログが放置されてしまっています。自分の生活を振り返るという意味以上に、日本人の多くの方々にとっては比較的に疎遠な国であろうアイルランドを紹介したいという願いがあるので、頑張って更新を続けたいと思います(笑)。

 

元日は、お参りの代わりに、ダブリンで一番古い大聖堂である Christ Church Cathedral (1030年頃建立)に行って来ました。[1]

 

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元々はカトリックでしたが、宗教改革後はイギリスに倣いアイルランド国教会(プロテスタント)になっています。『ガリヴァー旅行記』で有名なジョナサン・スウィフト(1667-1745) が主席司祭を務めた St. Patrick's Cathedral と並んでダブリンを代表する大聖堂となっています。流石に元日は人も少なく、ゆっくり黙祷を捧げることが出来ました。

 

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さて、ジョイス学者としては教会よりも元旦に「巡礼」に行きたい所があったのですが、生憎クリスマスあたりからイギリス・アイルランドを強嵐が襲い、この日も悪天候で敢え無く訪問を断念しました。。。

 

本日ようやく天候が回復したので、散歩がてらに行って来ました。目的地は ブルズ・アイランド(Bull's Island) というのですが、下の地図(見にくくてすいません)でいうと右の黒線で囲まれた縦長の島です。筆者の家は South Central にあるのですが、せっかくなのでブルズ・アイランドまでの道のりを写真でお楽しみ下さい。進路としては、東→北→北東→東に進む感じです。

 

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①近所の近く、運河(Grand Canal)の橋 ー South Central

 

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② 前にも登場した、詩人パトリック・カヴァナの像 ー South East

 

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③ ダブリン出身の劇作家サミュエル・ベケット  (1906-89) の名前を冠した「ベケット橋」とダブリンを横断するリフィー(Liffey)川沿岸の風景 ー Central

 

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④ アイルランドの王ブライアン・ボルー(Brian Boru)とその政敵との合戦 (1014年)が

有名なクロンターフ (Clontarf) [1] ー North Central 

 

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*黄色のバッグは、強風で荒れた波浪を食い止めるための土嚢(どのう)です。

 

⑤ そして歩くこと2時間(予想以上に遠かった)、ブルズ・アイランドに着きました!! 

 

 

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何故この場所に来たかったかというと、ジョイスの自叙伝的な小説『ある若き芸術家の肖像 (A Portrait of the Artist as a Young Man)』(1916)の有名なシーンの舞台だからです。主人公のスティーブン・ディーダラス(Stephen Dedalus) は成績優秀かつ敬虔な文学青年。ある日高校(イエズス会)の司祭の目にとまり、聖職者にならないかと誘われたスティーブンは、神を取るか芸術を取るか迷います。悶々とする中、ブルズ・アイルランドに来たスティーブンはそこで目の当たりにした光景に特別な感銘を覚え、芸術家となることを決意します。この感銘は、キリスト教の用語を借用して「エピファニーepiphany)」[3]ともいい、(芸術家にとって)「日常における非日常の現出」を意味します。一部ですが、その「エピファニー」の場面を原文と丸谷才一訳でどうぞ。

 

A girl stood before him in midstream, alone and still, gazing out to sea. She seemed like one whom magic had changed into the likeness of a strange and beautiful seabird. Her long slender bare legs were delicate as a crane's and pure save where an emerald trail of seaweed had fashioned itself as a sign upon the flesh. Her thighs, fuller and soft-hued as ivory, were bared almost to the hips, where the white fringes of her drawers were like feathering of soft white down. Her slate-blue skirts were kilted boldly about her waist and dovetailed behind her. Her bosom was as a bird's, soft and slight, slight and soft as the breast of some dark-plumaged dove. But her long fair hair was girlish: and girlish, and touched with the wonder of mortal beauty, her face. [4] 

 

 「ゆくてに, 流れのまんなかに娘がたたずんで, ただ一人そして静かに海のほうを見つめていた。それは魔法によって珍らかで美しい海鳥の姿に変えられた者のように思われた。 長くてほっそりしたあらわな脚は鶴のそれのように華奢で, 海藻の茎のエメラルドいろが一つ, 何かのしるしのように肌についているほかはまったく清らかだった。 象のように豊で柔らかな色合いのはほとんど臀のあたりまであらわにされ, そこではズロースの白い縁飾りが, やわらかで白い羽毛さながらにのぞいている。 灰いろがかった青のスカートは大胆に腰までたくしあげられ, 後ろで鳩の尾のそれのように柔らかく華奢で, 黒い羽毛の鳩のそれのように華奢で柔らか。 しかし長い金髪は少女らしく,その顔は少女らしくてしかもこの世の美のすばらしさに色づいている」[5] 

 

ブルズ・アイランドからは、ダブリンの街が一望出来ました。スティーブンはその後、ジョイスよろしく「魂の鍛冶場において未だ創られていない我が民族の意識を練る (to forge in the smithy of my soul the uncreated conscious of my race) 」ためにアイルランドを去ることを宣言しますが、住み慣れた街から離れたブルズ・アイランドへの遠征は、若き日のジョイスにとって外の世界へと目を向ける契機となったのかもしれません。

 

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[1]  公式ウェブサイト:http://www.christchurchdublin.ie/Home.htm

[2] 「クロンターフの戦い」については、このサイト(日本語)を参照:http://www.globe.co.jp/information/history/history-1.html

[3] 元々の用語は、キリスト(神)が三賢者の前に赤ん坊(人間)として顕現した時のことを差します。http://www.mrbauld.com/epiphany.html

 [4] James Joyce, A Portrait of the Artist as a Young Man (1916; London: Penguin, 2000), p. 186. 参考までに引用文の続きです。

 

"She was alone and still, gazing out to sea; and when she felt his presence and the worship of his eyes her eyes turned to him in quiet sufferance of his gaze, without shame or wantonness. Long, long she suffered his gaze and then quietly withdrew her eyes from his and bent them towards the stream, gently stirring the water with her foot hither and thither. The first faint noise of gently moving water broke the silence, low and faint and whispering, faint as the bells of sleep; hither and thither, hither and thither; and a faint flame trembled on her cheek.

—Heavenly God! cried Stephen's soul, in an outburst of profane joy.

He turned away from her suddenly and set off across the strand. His cheeks were aflame; his body was aglow; his limbs were trembling. On and on and on and on he strode, far out over the sands, singing wildly to the sea, crying to greet the advent of the life that had cried to him.

Her image had passed into his soul for ever and no word had broken the holy silence of his ecstasy. Her eyes had called him and his soul had leaped at the call. To live, to err, to fall, to triumph, to recreate life out of life! A wild angel had appeared to him, the angel of mortal youth and beauty, an envoy from the fair courts of life, to throw open before him in an instant of ecstasy the gates of all the ways of error and glory. On and on and on and on!"

 

[5] ジェイムズ・ジョイス 『若い藝術家の肖像』 丸谷才一訳 (集英社, 2009),p. 309. 

 

 

 

In Memoriam

お久しぶりです。前回の日記から大分間が空いてしまいました(汗)七月末にはベルファストで国際アイルランド文学会(IASIL)の総会があり、それが終わるや否や友人の結婚式に参列するために日本に一時帰国、八月中旬にダブリンに戻ってからはイギリスに留学中の後輩たちとアイルランドの西部のゴールウェイ/アラン諸島に旅行に行き、その後は溜まりに溜まったタスクや締め切りに追われていました。

 

ひと通りタスクは終わり、新学年度も始まってペースもそれなりに掴め始めたので、今後は(少なくとも)隔週くらいでブログを更新したいと思います(苦笑)。

 

さて、本当であればアイルランド紹介の一環としてゴールウェイ旅行のことを書きたいのですが、去る8月30日に詩人の シェイマス・ヒーニー(Seamus Heaney 1939-2013) が亡くなったので、この場を借りて追悼の言葉を送りたいと思います。

 

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ヒーニーの死に際して、現アイルランド首相のエンダ・ケニー(Enda Kenny)(1はこう述べました。『私たちにとって、シェイマス・ヒーニーは言語、私たちの規範、民族としての私たちの真髄の番人だった』('For us, Seamus Heaney was the keeper of language, our codes, our essence as a people')[1]

 

アイルランド関係者でなくとも、文芸に興味があればヒーニーの名前を耳にしたことがある人はあるだろうと思います。1995年にノーベル文学賞を受賞し、ハーバード、オックスフォード等の大学で教鞭を取り [2]、世界各地で詩の朗読/講演を行ったヒーニーは、国際的にもとても認知されている詩人です。

 

筆者は詩が専門ではないこともあり、残念ながらあまり詳しい説明は出来ないのですが、ヒーニーの作品を読む上で大事なのが彼の出自です。ヒーニーはデリー州の出身ですが、デリー州は北アイルランドの一部です。アイルランドは1922年にイギリスから部分的に独立し、アイルランド自由国(Irish Free State) と北アイルランドに分かれるのですが、後者はイギリス領として残りました。

 

北アイルランドは地理的・歴史的にプロテスタント系入植者(主にスコットランド系長老派と英国国教徒)が優勢な地域の大部分を占め、昔の名称に倣って今も「アルスター」と呼ばれたりします。[3] 1926年の時点では、北アイルランドの総人口に対してカトリックが 33. 5%、プロテスタントが 58. 3% でした。[4] 基本的にプロテスタントはイギリス支持派(ロイヤリスト)なので、そういう意味では分割は合理的な処置だったとも言えるでしょう。ただし、プロテスタント優位体制が存続する北アイルランドで、少数派であるカトリックは雇用、教育、住居などの面で様々な差別を受けました。1960年代になると世の趨勢を反映し、北アイルランドでもカトリックを中心に市民権運動が隆盛します。1968年のデリーでのカトリック教徒によるデモ行進の襲撃を皮切りに、俗に「トラブルズ」Troubles と言われるカトリックとプロテスタントの紛争が勃発します。[5] カトリックによるデモ行為を政治的脅威と感じたプロテスタントの過激派が武力にもの言わせて押さえつけ、それをまたカトリック側の過激派(主に IRA)が報復し、プロテスタントとカトリックの数が比較的拮抗する [6] とデリーやベルファストは最終的には血を血で洗う泥沼の内戦状態に陥りました。1998年のグッド・フライデー合意 (Good Friday Agreement)以来、状況はだいぶ沈静化していますが、未だに多くのカトリックとプロテスタントの居住区の間には鉄線を張った壁や、お互いの縄張りを誇示するための政治的なミューラル(壁画)があります。

 

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ノーベル文学賞の受賞スピーチにおいて、ヒーニーはカトリック系北アイルランド人としての自分のトラブルズに対する両義的な心情を述べています。

 

「私の中のキリスト教的モラリストが IRA による爆撃や殺人のキャンペーンの残虐さを糾弾するよう駆り立てたのに対し、私の中の「ただのアイルランド人」はデリーで1972年に起こった『血の日曜日』[7] のような出来事に見受けるイギリス兵の非道さに驚愕し、私の中の少数派市民 ーー この集団は公私のあらゆる領域で差別と疑惑をそしりを受けたという自覚のもと育ったこの個人だ ーー この市民の見識は、北アイルランドの生活がいつか本当に栄えるためには変化が起こらなければいけないといけないという事実を認識していたという意味では、状況の詩的真実と違わなかった。しかし、この市民の見識はまた、変化を求める IRA の手段の荒々しさは新しい可能性の基盤となる信頼を破壊するものだということを認識していたという意味でも真実と違わなかった」

 

'While the Christian moralist in oneself was impelled to deplore the atrocious nature of the IRA's campaign of bombings and killings, and the “mere Irish” in oneself was appalled by the ruthlessness of the British Army on occasions like Bloody Sunday in Derry in 1972, the minority citizen in oneself, the one who had grown up conscious that his group was distrusted and discriminated against in all kinds of official and unofficial ways, this citizen's perception was at one with the poetic truth of the situation in recognizing that if life in Northern Ireland were ever really to flourish, change had to take place. But that citizen's perception was also at one with the truth in recognizing that the very brutality of the means by which the IRA were pursuing change was destructive of the trust upon which new possibilities would have to be based'. [8]

 

To be continued ... 

 

 

 

 [1] http://www.irishtimes.com/news/ireland/irish-news/tributes-paid-to-keeper-of-language-seamus-heaney-1.1510607

 [2] オックスフォード の Professor of Poetry は、現職員と学生ならびに卒業生により選ばれる。年数回の講義を除いて実質的な教務はなく、どちらかと言えば名誉職に近いCf.) http://www.ox.ac.uk/about_the_university/oxford_people/professor_of_poetry/faqs.html

[3] F. S. L. Lyons, Culture and Anarchy in Ireland 1890-1939: From the Fall of Parnell to the Death of W. B. Yeats (Oxford: Oxford University Press, 1979), pp. 115-45. 

[4] Senia Paseta, Modern Ireland: A Very Short Introduction (Oxford: Oxford University Press, 2003), p. 102.

[5] 詳しくは、Paul Bew, Ireland: Poliitcs of Enmity 1789-2006 (Oxford: Oxford University Press, 2007), pp. 486-555. を参照。

[6] http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-20673534

[7] 北アイルランド政府が導入した公判なしでの監禁政策に反対するデモに参加した市民にイギリス軍落下傘部隊が発砲、13人の非武装市民が命を落とす。

[8] http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/features/seamus-heaney-dead-poets-1995-nobel-lecture-8791520.html

In the Shadow of Glendalough

日本の皆さま、お久しぶりです。ブログの更新がすっかり滞ってしまいました。Bloomsday 辺りから研究が本格化し、先週末まで埋没していました。明日から指導教官が主催する James Joyce Summer School が一週間に亘ってあるので、とりあえず一区切りです。Summer School には世界中からジョイス学者と主にジョイスを専門とする学生が来るので、彼らと交流出来るのがとても楽しみです! 

 

さて、最近はまりつつあるモノがあります。それは料理。別にグルメではないのですが、無駄にお金を払って不味い料理を食べるのがとても嫌いになったので(アイルランドの料理はアリです)、研究の息抜きも兼ねて少し真剣に自炊をすることにしました。最初は出来合いのものに自分で具材を足して作っていたのですが、最近はゼロから料理するようになりました。今日の献立は「サーモンのムニエル・バター風味椎茸和え」でした。思いのほか上手く出来たので、世にごまんといる他の独身貴族の皆さまの為にもレシピを紹介します(笑)。

 

「材料」(一人用)

 

サーモンの切り身(二枚)

大型椎茸(二個)

ほうれん草(100グラム)

ガーリック(1/4切れ)

バター(40グラム程度)

塩胡椒(少々)

しょうゆ(少々)

*トマト(一個)

 

*オプション

 

「調理方法」

 

① フライパンに油をひき、温まったらほうれん草と大型椎茸を炒める。

② しなってきたら取り出し、フライパンを水でゆすぎバターを入れる。

③ バターが溶けたらサーモンの切り身を入れる。

④ バターが充分温まったところできざんだガーリックを入れる。ガーリックは

風味を加え、サーモンの魚臭さを消すため。

⑤ サーモンがきつね色になったら、椎茸を入れる。

⑥ 頃合いを見て醤油をたらす(たらし過ぎると風味が壊れる)。

⑦ 皿に移し、ほうれん草と一緒に盛る。栄養のバランスと彩色を考慮して

トマトなどを付け足しても良い。

 

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料理って、ちょっとした工夫と手間で格段に美味しくなるから面白いですね。

自分の実力が直に跳ね返って来る点は研究と相通じるものがあります(笑)

また何か上手く料理出来たらアップしたいと思いますが、お勧めのレシピがあれば是非教えてください!

 

さて、前置きはこのくらいにして、今週は先月の週末に訪れた Glendalough を紹介しようと思います。Glendalough はアイルランド語ゲール語)で Gleann Dá Loch

と表記し、「二つの湖がある谷」を意味します [1]。場所はダブリン州直下のウィックロー(Wicklow)州にあります。6世紀の初頭に、高名の聖人ケビンがこの地に修道院を開き、その跡は今でも残っています。史跡としての価値はもちろんですが、さすが隠遁地として最初ケビンに選ばれただけはあり、人里離れた Glendalough はとても風光明媚で、行楽地としても現地人・観光客共に人気があります。

 

最盛期(540年頃)には Glendalough には聖ケビンをたよって多くの巡礼者がダブリンをはじめ各地から来たらしいのですが [2]、時は経って21世紀。お世辞にも敬虔とはいえない筆者は、元大家さんの車に乗って同じ行程を辿りました(笑)その時の光景を同行した元ハウスメイト L. M. さんの写真を交えてどうぞ。

 

Wicklow の山。下に見えるのは盆地ではなく、フィヨルド。元大家の Malachy も映りこんでいる(笑)一説によると、Wicklow はヴァイキングによって興されたらしい [3]。切れてしまっているが、写真の右側には前の日記に出てきたギネス家の邸宅がある。湖がギネスのビール色なのはそのせいなのだろうか!?

 

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Wicklow の丘陵地帯。ここら一帯はボグ(泥炭)地らしい。茶色に見えるのはヒースの花。開花期は6月以降だそうな。ちなみに、Wicklow の山はダブリンからも見え、20世紀演劇を代表する劇作家サミュエル・ベケット Samuel Beckett(1906-1989)のニヒルな描写を始め、多くのダブリンの文豪の作品に現れる [4]。

 

 

 

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Glendalough 近くの谷。写真からは分かりにくいが、高度はかなりある。羊がのどかに草をはむ牧歌的な風景で、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を思い出したのは、筆者だけではあるまい(笑)

 

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今も残る Glendaough の入り口。弟子が多く住みつくようになってからは、僧院のまわりに「ケビンの独房 Kevin's Cell」と呼ばれる壁が建造された模様。

 

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Glendalough の二つある湖のうちのひとつ、'Upper Lake'。水はとても澄んでいる。ケビンは粗食を心がけていたというが、一体何を食べていたのだろう? 魚ではという意見も出たが、アイルランド人は魚を賤民が食べるものと昔から見なしていた事実を考慮すると [5]、どう判断したものか。

 

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林間の光景。マイナスイオンが出ているかは定かではないが(笑)、色々と浄化されそうである。ちなみに、アイルランドには樫(Oak) が多く、樫に由来する土地名も多い(例えば Kildare = Cill Dara = The Church of Oak)。キリスト教伝来(432)以前から存在する、土着のドルイド教の信者は樫の森で儀式をしていたらしく [6]、聖なる木として樫が崇められいたことが分かる。

 

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Glendalough の墓地。キリスト教の十字架の回りに円を描いた、いわゆるケルティック・クロスが付いた墓碑もちらほらとあるが(円はドルイドたちにとって「神」にあたる太陽を表している)、これはどうやら19世紀後半に興ったアイリッシュ・リバイバル時期のものらしい。

 

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聖ケビンの家とその「台所」。元々は入り口はこの反対側にあったらしい。大きさは、筆者のアパートと変わらないくらい。都会の喧噪を離れ、筆者もここで研究をしたらさぞかし作業もはかどる。。。だろうか?

 

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Glendalough のランドマークとなる Round Tower. この建造物は警鐘台として機能したらしい。普段は倉庫や貯蔵庫として使い、敵襲などを受けると住民は塔の中に逃げ込み、下の入り口から縄はしごを外し、進入路を断った模様。

 

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以上 Glendalough でした。もう少しアイルランドの古代史やドルイド教のことを勉強してから再び訪れたいと思います!

 

最後に、ノーベル文学賞受賞者の北アイルランドの詩人、シェイマス・ヒーニー Seamus Heany (1939- ) が綴った聖ケビンにまつわる詩を紹介します。この日記の下調べをしている最中に偶然見つけました。「全ての道は Glendalough に続く」ではないですが、こういう時空を超えた繋がりを見つけるのはとても嬉しいものです。

 

'St. Kevin and the Blackbird'

 

And then there was St Kevin and the blackbird.
The saint is kneeling, arms stretched out, inside
His cell, but the cell is narrow, so

One turned-up palm is out the window, stiff
As a crossbeam, when a blackbird lands
and Lays in it and settles down to nest.

Kevin feels the warm eggs, the small breast, the tucked
Neat head and claws and, finding himself linked
Into the network of eternal life,

Is moved to pity: now he must hold his hand
Like a branch out in the sun and rain for weeks
Until the young are hatched and fledged and flown.

       *

And since the whole thing’s imagined anyhow,
Imagine being Kevin. Which is he?
Self-forgetful or in agony all the time

From the neck on out down through his hurting forearms?
Are his fingers sleeping? Does he still feel his knees?
Or has the shut-eyed blank of underearth

Crept up through him? Is there distance in his head?
Alone and mirrored clear in love’s deep river,
‘To labour and not to seek reward,’ he prays,

A prayer his body makes entirely
For he has forgotten self, forgotten bird
And on the riverbank forgotten the river’s name. [7]

 

 

 

References

 

[1] http://www.sacred-destinations.com/ireland/glendalough

[2] http://www.catholic.org/saints/saint.php?saint_id=129

[3] http://www.extremeireland.ie/counties/wicklow.html

[4] Cf.) 'Wicklow, full  of breasts with pimples, he refused to consider'

Samuel Beckett, More Pricks than Kicks (London: John Calder, 1934), p. 100.

[5] R. F. Foster, Modern Ireland 1600-1972 (London: Penguin, 1988), pp. 129-30. 

[6] James Joyce, Occasional, Critical, and Political Writing, intro. and notes Kevin Barry, trans. Conor Deane  (Oxford: Oxford University Press, 2000), p. 110.

[7] Seamus Heaney, Opened Ground: Selected Poems 1966-1996 (New York: Farrar, Straus and Giroux, 1999), p. 384.

Bloomsday 2013

日本の皆さま、お久しぶりです。気づけば六月ももうすぐ終わりですね。生活環境も大分整って来たので(まだ細々とした家具は必要ですが)、本格的に研究を再開しました。カフェ、自宅、公園、人によって作業場所は様々ですが、筆者は結局図書館が一番落ち着くので、たいてい大学の図書館かアイルランド国立図書館(National Library of Ireland)にいます。図書館は週末閉館してしまうので、平日は作業して休日は休むというサラリーマン的な規則正しさで今のところ生活しています(笑)。休日は主に大学のプール(50m プール)で泳いだり、散歩したり、友人と会ったりしています(昨日はケンブリッジ時代の旧友と会いました)。他に趣味と言えば音楽ですが、もう少し慣れてきたらギターでも買おうかなと思っています。

 

とはいえ下宿ではとても大きな音を出して弾けなさそうなので、いずれは映画『ONCE〜 ダブリンの街角で』(2007)のグレン・ハンサードみたいに市内で路上パフォーマンス(正確には「バスキング Busking」という)ですかね(笑)。

 

 


Glen Hansard - Say It To Me Now (Live outside of ...

 

さて先週の日曜日ですが、ジョイス学者にとっては重要な日でした。ジョイスの代表作に『ユリシーズ』(1922)という小説があるのですが、その舞台が 1904年の6月16日なのです(一説によるとジョイスが未来の妻となるノラ・バーナクルに最初に会った日だからとか)。ジョイスの偉業を讃えるために、毎年この日にダブリンを始め世界中の都市で Bloomsday と称されるお祭りが開催されるのですが、流石ジョイスの「地元」ダブリンの Bloomsday は盛大でした!

 

Bloomsday はアイルランドではもはや国をあげてのイベントになっていて、国立図書館、University College Dublin(ジョイスの母校ー筆者の留学先でもある)を筆頭に様々な場所で講演・朗読・寸劇など色々な催しが行われていました。とても全ては見切れなかったのですが、その日の様子を写真でどうぞ!!

 

国立図書館の講堂でDr. Gerard Dineen による講演。題目は「ジョイスと欧州大陸の文学」。会場は立ち見が出るほど満杯。年齢層は結構高め。

 

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国立図書館の閲覧室。『ユリシーズ』の第9挿話「スキュラとカリュブディス」の舞台でもあります。筆者はいつも目の前の席で作業しています。

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国立図書館近くのDuke Street 沿いにある Davy Byrnes。『ユリシーズ』の主人公の一人であるレオポルド・ブルームが第8挿話「ライストリューゴーン族」で昼食を食べに立ち寄るパブです。その食事を再現して、この日のスペシャル・メニューはゴルゴンゾーラ・チーズのサンドイッチとブルガンディー・ワイン! 

 

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手前にいる紳士はエドワード朝のダブリンの市民の仮装をしています。筆者も第一回の Bloomsday を記念してスーツと黒の蝶ネクタイで洒落込みましたが、どうもフォーマルすぎたらしく、かなり浮いていました(苦笑)

 

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O'Connell 通りの横、Earl Street 北通りにあるジョイスの銅像。銅像の他にこの日はジョイスのそっくりさんも何人か目撃しました。

 

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O'Connell 通りを更に北上した所にある名門 Belvedere 高校。家系が苦しくちゃんとした高校に進学出来なかったジョイスを見かねた学長が特別に学費免除で入れてくれました。

 

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自伝的小説『ある若き芸術家の肖像』(1916)で主人公のスティーブン・ディーダラスが聞くお説教を暗唱するイエズス会の神父さま。はまり役でした(笑)。

 

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Belvedere の近くにある James Joyce Centre が主催する Walking Tour に参加しました。Eccles 通りの7番はブルームの家がある場所です。元のドアは James Joyce Centre に展示してあるのですが、最近ドアノブが何十年ぶりかにアメリカのジョイス・ファンから返却されたとか!

 

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街の南側。ジョイスの通った University College の旧校舎。今では創立者 John Henry Newman (1801-90) にちなんで Newman House という特別会場になっています。

 

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Newman House の向かいにある St. Stephen's Green。元々はギネス・ビール会社の創業者アーサー・ギネス(1724?-1803)の庭園だったようですが、今ではダブリンの市民の憩いの場。

 

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St. Stephen's Green にあるジョイスの胸像。『ある若き芸術家の肖像』で公園を横切るスティーブンは、自分の名前と同じことから、「僕の公園だ」などと不遜にも考えます。

 

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以上で Bloomsday 2013 の写真は終わりです。来年は『ダブリンの市民』の出版100周年。きっとBloomsday も一層盛り上がることでしょう。この一年でジョイス・ネタをもっと仕込み、より充実したレポートが出来るよう頑張りたいです!

 

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The Great Gatsby Film

 

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上は僕が住んでいる、ラスマインズ(Rathmines)という地区の写真です。ダブリンの中心街からは歩いて40分、自転車で20分くらいの距離にあります。ダブリンの郊外では比較的大きい商店街の部類に入り、コンビニ、スーパー(アジア系もある)は複数あり、小売店も雑貨屋、電気屋、肉屋八百屋と一通り揃っています。更に、写真の右手(クレーンの下)に見える建物はショッピングモールで、二階は映画館となっています。新居に引っ越して3週間、少し週末感覚も戻って来たので、先週末はこの映画館で The Great Gatsby を観て来ました(日本は公開が6月14日らしいですね。あらすじを含む詳細を知りたい方はここを参照して下さい: http://news.livedoor.com/article/detail/7245926/

 

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原作は、アメリカの作家 F. スコット・フィッツジェラルド(1896-1940)が1925年に出した同名の小説です。The Great Gatsby はアメリカ人なら誰でも知っている、「国民的小説」です。高校のアメリカ文学の授業ではよく指定テキストとなり、今でも年間50万部(米国版)の売り上げを記録するほどの人気です [1]。限に、The Great Gatsby が映画化されたのはこれが初めてではなく、1974年版ではロバート・レッドフォードミア・ファローの二大スターが起用されました。

 

そんなわけで、今年度公開の The Great Gatsby は最新のリメイクとなるわけですが、これが残念ながらアイルランドを含め先行公開された英語圏では酷評されているのです。参考までに幾つかレビューを抜粋します(敢えて訳しません)。

 

'Luhrmann’s vulgarity is designed to win over the young audience, and it suggests that he’s less a filmmaker than a music-video director with endless resources and a stunning absence of taste' - The New Yorker [2]

'So what in the name of fudge is this thing? You don’t watch Baz Luhrmann’s detonation of F Scott Fitzgerald’s The Great Gatsby ; you get beaten up by it' - The Irish Times [3]

'Baz Luhrmann was precisely the wrong director to shoot F.  Scott Fitzgerald’s small but perfectly formed American novel. With the opposite of the Midas touch, he has transformed a book of class, subtlety and sophistication into a frenzied folly, with the heartfelt emotion of a Las Vegas floorshow' - The Daily Mail [4]


苦言の内容を大まかに整理すると、① 監督のバズ・ルーマンの演出が派手すぎて原作のニュアンスが台無しになっている(これが批判の大部分)、② Jay-Z (カリスマ黒人ラッパー)の音楽を1920年代のニューヨークが舞台の作品に使うのは時代錯誤的でおかしい、③ 登場人物が薄っぺらく存在感がない、の三点でしょうか。

 

僕は映画は専門的に扱えないし、一個人としての意見しか言えないのですが、③に関しては小説 The Great Gatsby を映画に翻案する際の構造的な問題だと思います。

 

同じくアメリカの作家ヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)は、小説の極意は「語るのではなく見せる ('show not tell')」ことだと理解しました。つまり、物語の場面や登場人物の心理を逐一描写するのではなく、話の筋を追う為に読者が知るべき必要最低限なディテールを提示することで、物語の出来事がよりリアルな体験として読者に体験されるというわけです。

 

ジョイスなんかは、この 'showing' がとても上手い作家なのですが(特に『ダブリンの市民』)、フィッツジェラルドはどちらかというと、'telling' が得意な作家だと思います。 例えば、The Great Gatsby 中の真夏日の電車内の様子の描写。

 

'The next day was broiling, almost the last, certainly the warmest of the summer. As my train emerged from the tunnel into sunlight, only the hot whistles of the National Biscuit Company broke the simmering hush at noon. The straw seats of the car hovered on the edge of combustion; the woman next to me perspired delicately for a while into her white shirtwaist, and then, as her newspaper dampended under her fingers, lapsed despairngly into deep heat with a desolate cry. Her pocket-book slapped to the floor'. [5]

 

「次の日は蒸し暑く、夏ももうすぐ終わりというのであれば、それは間違いなく最も暑い夏の日だった。わたしを乗せた電車がトンネルから日差しの中へと出てくると、煮え立つ真昼の静寂を破るのはナショナル・ビスケット会社の暑い笛の音だけだった。車両の藁の座席はゆらゆらと今にも爆発しそうだった。僕の隣に座っていた女性は、しばらくの間シャツブラウスの中へと上品に汗をしたたらせていたが、指の下の新聞紙が汗で湿るにつれ、再び深い熱気の中へと惨めな嘆き声を漏らし出した。彼女のハンドバックはぴしゃりという音と共に床に落ちた」(試訳)

 

「蒸し暑い日」だと明示した挙げ句、「暑い笛」(おそらく昼休みの開始を告げる笛で、ビスケット工場の中の熱気を想像させる)、「煮え立つ沈黙」、「今にも爆発しそうな座席」(「ゆらゆら」は熱気で座るのがやっとな乗客のけだるい様子も伝える)、「汗をしたたらせる女性」、「汗でにじんだ新聞紙」、「深い熱気」、そして「びしゃりと床に落ちるハンドバッグ」(擬音は女性の汗で湿った肌、床への落下は暑さで滅入って今にも倒れそうな女性を彷彿とさせる)と暑さにまつわる描写と語句をこれでもかという程重ねて、臨場感を高めています。少しくどい気もしますが、場の雰囲気はとても良く伝わってきます。

 

さて、映画とはもっぱら 'show' に徹するメディアなので、上記のような場面描写はそこまで無理なく再現出来ると思うのですが、人物描写は別です。フィッツジェラルドは、身体的な特徴よりも個人が持つ雰囲気を以って登場人物に肉付けする作家なので、映像だと'showing' の効果が逓減し、平板な描写になり兼ねません。

 

'Her face was sad and lovely with bright things in it, bright eyes and a bright passionate mouth, but there was an excitement in her voice that men who had cared for her found difficult to forget: a singing compulsion, a whispered "Listen", a promise that she had done gay, exciting things just a while since and that there were gay, exciting things hovering in the next hour' [6]

 

「彼女の顔は悲しげで愛らしく、輝かしいものをたたえていた。輝かしい眼と輝かしい情熱的な口。だけど彼女に好意を寄せた男性はみな、高揚感が籠った彼女の声を忘れることが出来なかった。それはすぐ歌い出す癖、「ねえ聞いて」という囁き、そして彼女はいつさっきまで陽気で楽しいことにいそしんでいて、またすぐ陽気で楽しいことが起きるぞという約束だった」(試訳)

 

小説における描写ではデイジーの人柄や容貌についての具体的な説明が欠けており、ぼんやりした印象しか伝わってきません。しかし、これこそが小説の意図なのです。フィッツジェラルドの関心の多くは、デイジーという一個人を 'show' することよりも、デイジーが体現する1920年代のアメリカの若い女性像(詳しくは [7] を参照)を 'tell' する男性像(直截的にはニックにあたりますが、作者自身の視点も重ねられていると思います)を描くことにあるのだと思います。

 

現にデイジーという女性は、ありのままの人物ではなく、男性の視点を内面化した「演出」に過ぎないことを、娘が産まれた時の事を語るデイジー自身が示唆しています。

 

'I'm glad it's a girl. And I hope she'll be a fool - that's the best thing a girl can be in this world, a beautiful little fool' [8]

 

「女の子でよかった。おばかさんに育って欲しいわ。女の子にとって、この世でそれが一番いいもの。とびきり可愛らしいおばかさんがね」

 

デイジー自身「とびきり可愛らしいおばかさん」のように終始振る舞うわけですが、それは旦那(トム)と恋人(ギャッツビー)が彼女に求める女性像からの逃避でもあり、それは翻って自分に対する男性の言動を裏付ける規範の告発でもあります。その意味では、デイジーの薄っぺらさは彼女が住む「この世」である1920年代のアメリカ白人社会の風刺でもあり、そこにこそ The Great Gatsby の奥深さがあると筆者は思います。

 

 

 References 

 

[1]http://www.newyorker.com/arts/critics/cinema/2013/05/13/130513crci_cinema_denby?currentPage=1

[2] Ibid.

[3] http://www.irishtimes.com/culture/film/review-the-great-gatsby-1.1394679

[4] http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/reviews/article-2325782/The-Great-Gatsby-review-Baz-Luhrmanns-film-shallow-spilt-champagne.html

[5] Fitzgerald, F. Scott. The Great Gatsby. 1925; London: Penguin. 1950. p. 109.

[6] Fitzgerald, p. 15. 

[7] Sanderson, Rena. 'Women in Fitzgerald's Fiction'. The Cambridge Companion to F. Scott Fitzgerald. Ed. Ruth Prigozy. Cambridge: CUP. 2002. 

[8] Fitzgerald, p. 22.