The Great Gatsby Film

 

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上は僕が住んでいる、ラスマインズ(Rathmines)という地区の写真です。ダブリンの中心街からは歩いて40分、自転車で20分くらいの距離にあります。ダブリンの郊外では比較的大きい商店街の部類に入り、コンビニ、スーパー(アジア系もある)は複数あり、小売店も雑貨屋、電気屋、肉屋八百屋と一通り揃っています。更に、写真の右手(クレーンの下)に見える建物はショッピングモールで、二階は映画館となっています。新居に引っ越して3週間、少し週末感覚も戻って来たので、先週末はこの映画館で The Great Gatsby を観て来ました(日本は公開が6月14日らしいですね。あらすじを含む詳細を知りたい方はここを参照して下さい: http://news.livedoor.com/article/detail/7245926/

 

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原作は、アメリカの作家 F. スコット・フィッツジェラルド(1896-1940)が1925年に出した同名の小説です。The Great Gatsby はアメリカ人なら誰でも知っている、「国民的小説」です。高校のアメリカ文学の授業ではよく指定テキストとなり、今でも年間50万部(米国版)の売り上げを記録するほどの人気です [1]。限に、The Great Gatsby が映画化されたのはこれが初めてではなく、1974年版ではロバート・レッドフォードミア・ファローの二大スターが起用されました。

 

そんなわけで、今年度公開の The Great Gatsby は最新のリメイクとなるわけですが、これが残念ながらアイルランドを含め先行公開された英語圏では酷評されているのです。参考までに幾つかレビューを抜粋します(敢えて訳しません)。

 

'Luhrmann’s vulgarity is designed to win over the young audience, and it suggests that he’s less a filmmaker than a music-video director with endless resources and a stunning absence of taste' - The New Yorker [2]

'So what in the name of fudge is this thing? You don’t watch Baz Luhrmann’s detonation of F Scott Fitzgerald’s The Great Gatsby ; you get beaten up by it' - The Irish Times [3]

'Baz Luhrmann was precisely the wrong director to shoot F.  Scott Fitzgerald’s small but perfectly formed American novel. With the opposite of the Midas touch, he has transformed a book of class, subtlety and sophistication into a frenzied folly, with the heartfelt emotion of a Las Vegas floorshow' - The Daily Mail [4]


苦言の内容を大まかに整理すると、① 監督のバズ・ルーマンの演出が派手すぎて原作のニュアンスが台無しになっている(これが批判の大部分)、② Jay-Z (カリスマ黒人ラッパー)の音楽を1920年代のニューヨークが舞台の作品に使うのは時代錯誤的でおかしい、③ 登場人物が薄っぺらく存在感がない、の三点でしょうか。

 

僕は映画は専門的に扱えないし、一個人としての意見しか言えないのですが、③に関しては小説 The Great Gatsby を映画に翻案する際の構造的な問題だと思います。

 

同じくアメリカの作家ヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)は、小説の極意は「語るのではなく見せる ('show not tell')」ことだと理解しました。つまり、物語の場面や登場人物の心理を逐一描写するのではなく、話の筋を追う為に読者が知るべき必要最低限なディテールを提示することで、物語の出来事がよりリアルな体験として読者に体験されるというわけです。

 

ジョイスなんかは、この 'showing' がとても上手い作家なのですが(特に『ダブリンの市民』)、フィッツジェラルドはどちらかというと、'telling' が得意な作家だと思います。 例えば、The Great Gatsby 中の真夏日の電車内の様子の描写。

 

'The next day was broiling, almost the last, certainly the warmest of the summer. As my train emerged from the tunnel into sunlight, only the hot whistles of the National Biscuit Company broke the simmering hush at noon. The straw seats of the car hovered on the edge of combustion; the woman next to me perspired delicately for a while into her white shirtwaist, and then, as her newspaper dampended under her fingers, lapsed despairngly into deep heat with a desolate cry. Her pocket-book slapped to the floor'. [5]

 

「次の日は蒸し暑く、夏ももうすぐ終わりというのであれば、それは間違いなく最も暑い夏の日だった。わたしを乗せた電車がトンネルから日差しの中へと出てくると、煮え立つ真昼の静寂を破るのはナショナル・ビスケット会社の暑い笛の音だけだった。車両の藁の座席はゆらゆらと今にも爆発しそうだった。僕の隣に座っていた女性は、しばらくの間シャツブラウスの中へと上品に汗をしたたらせていたが、指の下の新聞紙が汗で湿るにつれ、再び深い熱気の中へと惨めな嘆き声を漏らし出した。彼女のハンドバックはぴしゃりという音と共に床に落ちた」(試訳)

 

「蒸し暑い日」だと明示した挙げ句、「暑い笛」(おそらく昼休みの開始を告げる笛で、ビスケット工場の中の熱気を想像させる)、「煮え立つ沈黙」、「今にも爆発しそうな座席」(「ゆらゆら」は熱気で座るのがやっとな乗客のけだるい様子も伝える)、「汗をしたたらせる女性」、「汗でにじんだ新聞紙」、「深い熱気」、そして「びしゃりと床に落ちるハンドバッグ」(擬音は女性の汗で湿った肌、床への落下は暑さで滅入って今にも倒れそうな女性を彷彿とさせる)と暑さにまつわる描写と語句をこれでもかという程重ねて、臨場感を高めています。少しくどい気もしますが、場の雰囲気はとても良く伝わってきます。

 

さて、映画とはもっぱら 'show' に徹するメディアなので、上記のような場面描写はそこまで無理なく再現出来ると思うのですが、人物描写は別です。フィッツジェラルドは、身体的な特徴よりも個人が持つ雰囲気を以って登場人物に肉付けする作家なので、映像だと'showing' の効果が逓減し、平板な描写になり兼ねません。

 

'Her face was sad and lovely with bright things in it, bright eyes and a bright passionate mouth, but there was an excitement in her voice that men who had cared for her found difficult to forget: a singing compulsion, a whispered "Listen", a promise that she had done gay, exciting things just a while since and that there were gay, exciting things hovering in the next hour' [6]

 

「彼女の顔は悲しげで愛らしく、輝かしいものをたたえていた。輝かしい眼と輝かしい情熱的な口。だけど彼女に好意を寄せた男性はみな、高揚感が籠った彼女の声を忘れることが出来なかった。それはすぐ歌い出す癖、「ねえ聞いて」という囁き、そして彼女はいつさっきまで陽気で楽しいことにいそしんでいて、またすぐ陽気で楽しいことが起きるぞという約束だった」(試訳)

 

小説における描写ではデイジーの人柄や容貌についての具体的な説明が欠けており、ぼんやりした印象しか伝わってきません。しかし、これこそが小説の意図なのです。フィッツジェラルドの関心の多くは、デイジーという一個人を 'show' することよりも、デイジーが体現する1920年代のアメリカの若い女性像(詳しくは [7] を参照)を 'tell' する男性像(直截的にはニックにあたりますが、作者自身の視点も重ねられていると思います)を描くことにあるのだと思います。

 

現にデイジーという女性は、ありのままの人物ではなく、男性の視点を内面化した「演出」に過ぎないことを、娘が産まれた時の事を語るデイジー自身が示唆しています。

 

'I'm glad it's a girl. And I hope she'll be a fool - that's the best thing a girl can be in this world, a beautiful little fool' [8]

 

「女の子でよかった。おばかさんに育って欲しいわ。女の子にとって、この世でそれが一番いいもの。とびきり可愛らしいおばかさんがね」

 

デイジー自身「とびきり可愛らしいおばかさん」のように終始振る舞うわけですが、それは旦那(トム)と恋人(ギャッツビー)が彼女に求める女性像からの逃避でもあり、それは翻って自分に対する男性の言動を裏付ける規範の告発でもあります。その意味では、デイジーの薄っぺらさは彼女が住む「この世」である1920年代のアメリカ白人社会の風刺でもあり、そこにこそ The Great Gatsby の奥深さがあると筆者は思います。

 

 

 References 

 

[1]http://www.newyorker.com/arts/critics/cinema/2013/05/13/130513crci_cinema_denby?currentPage=1

[2] Ibid.

[3] http://www.irishtimes.com/culture/film/review-the-great-gatsby-1.1394679

[4] http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/reviews/article-2325782/The-Great-Gatsby-review-Baz-Luhrmanns-film-shallow-spilt-champagne.html

[5] Fitzgerald, F. Scott. The Great Gatsby. 1925; London: Penguin. 1950. p. 109.

[6] Fitzgerald, p. 15. 

[7] Sanderson, Rena. 'Women in Fitzgerald's Fiction'. The Cambridge Companion to F. Scott Fitzgerald. Ed. Ruth Prigozy. Cambridge: CUP. 2002. 

[8] Fitzgerald, p. 22.